タイトル

タイトル変更(その6)

が、残念なことに学生時代ですら勉強嫌いであった私には「死ぬまで勉強」なんて大袈裟なことはできない。
すれば、ちょっとだけでも自分を元気にしてみようかな?
自分を育ててみようかな?
もうちょっと枝ぶりをよくしてみようかな?
小さな果実でも実ったらうれしいな?
ってなことを考えて、自分を栽培しようとすれば、多少なりとも生きる力が身につくんじゃないかと。
ひじょうにショボイし、今後またすぐ気持ちが変わるかもしれないし、諦めてしまうかもしれないが、今の時点ではそんなところに至ったので、本日よりタイトルも
自分栽培としてみました。
「救済法」は自分を育てるショボい課題のようなもんです。

さて、どこまで育てられるのでしょうか?

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タイトル変更(その5)

生きる力には勉強だけでなく、体力やもちろん健康といったものもあろうし、心の問題もあろう。
気持ちの持ち方次第で対処が全然違ってくるのはよくある話だ。
が、それらが理屈でわかっていたところで、急に便宜よく使えるわけでもない。
アクシデントは突然来る。
いつでも使えなきゃ意味がない。

そういうのを「心構え」と昔の人は言ったのかもしれないが、ある意味の「覚悟」でもあろう。
私に「生きる力」が足りないのは、ある意味「生きていく覚悟」が足りないということなのかもしれない。

かつての大昔なら社会も単純で、そんなに物事深く考えずとも、食うこと、着ること、眠ること、ぐらい考えていればよかったのかもしれないが、この現代社会はあまりにも複雑になりすぎて、特に都会で過ごすにゃあストレスの源が多すぎる。
残念なことに自殺してしまう人や病気になってしまう人が年々増え続けるのも、きっと「生きていく力」が枯れ果ててしまったのではないかと思う。
大昔ならそんな人間は居なかったのではなかろうか?

養老孟司先生ではないが、人間は他の動物と同じ自然の産物であり、本来は自然の中で過ごしてこそ落ち着くものなのだろう。
が、今や都会に自然はなく、人の脳みそが作り出した人工物に囲まれて過ごしているわけで、それはある意味人の脳みその中で生活しているようなものだ。
誰しもが同じ考えではないように、他人の脳みそは非常に窮屈な世界でもあるのだろう。
ゆえに、さまざまなストレスが生じるのも当然だ。

それでも私は生きていかなばならない。
ならば、ストレスなんかに負けずに生き延びるしかない。
そのために「生きる力」が必要であるならば、嫌でも身につけるしかないのだろう。
気が付けば金の有る無しに関わらず、たくましく生きていらっしゃる人は大勢居る。
皆、苦労して「生きる力」を身につけてきたのだろう。
苦労しらずの私に「生きる力」が備わっていないのは当然だ。

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タイトル変更(その4)

それでも、何もせんよりは良かったのだろう。最近は少し変わったような気がする。
ものすごく自信がないので、めちゃめちゃまわりくどい表現しかできない程度だが、ようやくうっすらとトンネルの向こうに灯りらしきものが見えるような気がしてきたが、まだまだ気のせいなのか?程度のほのかな変化である。
が、その気のせいのような灯りにたどり着く力が「生きる力」じゃなかろうか?なんて思い始めている。
その「生きる力」が私には足りなかったのだ。

世の中が複雑になったせいもあろう。
自分の年齢のせいもあろう。
が、そんなものは自分でどうにかできることじゃない。
いろいろなことがうまくいかないのをそれらのせいにしたってどうしようもないことなのだ。
いわゆる思案するだけ時間の無駄というやつである。
何の解決にも至らない。
そんなんに時間を割くぐらいなら、小さなことでも自分でできることを見つけた方がまだマシというものだろう。
自分には「生きる力」が足りなわけだから、少しでも生きる力を身につけることに時間を使ったほうが、もうちょっと楽しく過ごせるんじゃないか?
ということにようやく気がつき始めたんじゃないかということである。

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タイトル変更(その3)

39歳の頃になんとなく自分の非力さや能のなさに気がつき始めたが、その頃に自分を育てる必要があるとはまだ思っていなかった。
ただ、何となくこのままじゃあダメになるんじゃないかな?程度は考えはじめた。
とりあえず、いろいろ手を打ってみた。
生活を変えてみた。
資格試験に手を出したこともあったし、やめてしまった遊びもある。
今にして思えば当然だが、自分を教育していない=コントロールもしていなかったので、暴飲暴食がたたり、だらしない生活も手伝って太ってもいた。
なのでいっちょまえにダイエットにも挑戦した。
それらの試行錯誤でこの10年は生きてきたといってもよかろう。
それでも、つい最近までうんと悩んでいた。
飲み会でウサ晴らししても、そんな解放感は一瞬にして消え、翌日には二日酔いでよけいにネガティブになるのが日常茶飯事だった。

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タイトル変更(その2)

人間を育てることを教育というが、それは子供だけに必要なことではないようだ。
古き名言に「人間は死ぬまで勉強」なるものがあるが、それはきっと気がついた人の言葉なのだろう。
私も人間であり、人生を歩んでいるのだから、本来は「死ぬまで勉強」だったはずなのだ。
が、私は学生の頃の大嫌いな強制的な勉強期間が済めば、それで「完了!」実社会でやっていくのにそれ以上の勉強期間なんて必要性ないと思っていた。
たかをくくっていたと言ってもよかろう。
まあ、必要性を感じたとしても資格取得のような「手段」としての勉強程度で、自分を育てる必要性はないと思っていたということだ。
つまり裏を返せば、自分はもう十分に育ったと勘違いしていたようなものである。
すれば、この厳しい世の中で、立ちはだかる困難に勝てるどころか立ち向かえるはずもないわけで、いろいろな局面で「負けている自分」に気が付かなかったのだろう。
「なんで?思うようにならないんだ。」は教育を受けていない駄々っ子の「なんで?買ってくれないの。」と同じ次元だったわけで、自分でも「なるほど」と思ってしまうぐらい育っていなかったということだろう。

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タイトル変更(その1)

自分飼育でも良いのだが、大袈裟に言うと自分を教育するためにブログを利用してみようかな。ってところである。
記憶をたどれば、人並みの悩みや迷いこそあれど、大きな挫折や苦労もなく39歳ぐらいまでは生きてこれた。
が、若かりし頃の貯金を使い果たしたかのように、その後は「なんだか違うぞ」「なんで思うようにならないんだ」なんてことばかりが起こるようになった。
世の中は理不尽なものだから、その原因がわからないのは致し方ないとしても、対処ができないのである。
従って「悩む」「苦しむ」そして「逃れようとする」・・・その繰り返しのなかで、なんのことはない要するに「自分には対処する力が備わってないんだ。」という至極単純なところが答えであるような気がしてきた。

もう十分に大人なので「これ以上育つ必要はない」とどっかで思ってもいたのだろう。
が、そう思ってしまえば、ある年齢から私は育っていないわけで、もしかしたら小学校6年生ぐらいから成育がストップしてしまっているのかもしれない。
たしかに学歴はそれ以上だが、「生きていく力」は学校の授業だけで身につくものでもなさそうだ。
ならば、やっぱり大人になっても自分を育てることが必要なんじゃないか?と最近思うようになったのである。

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