自分の醜さを知ることから・・・
そしてとりあえず、今のところは先生が心配されていたような、自分を掘り下げることの弊害はあまり感じられない。
いや、むしろ正直な自分にときたま出会えるようになって、妙な安堵感がある。
さらには、そんな正直な自分を徐々にではあるが、出せるようになって、楽に感じることもある。
簡単に言ってしまうことはできないが、かつて自信満々に見えた自分は、虚勢のたまもので、実は本当の自信がなく、人目を気にし、評価を気にし、優秀な人と思われたいという欲で作り上げた「自分のなりたい虚像」のようなものだったのだろう。
そして本当の自分は猜疑心が強く、気が小さく、だからこそ、見え張りで、人によく思われたかったわけだ。
本当の自分を並べてみてわかってきたのが、「そりゃ何も大したことができんヤツ」だったのである。
いやさ、百歩譲っても「そこそこ生きてこられたら上出来」の部類であって、こんな低い能力と弱い精神力で、欲ばかりの多いこと・・・
自分でもあきれてしまう。
そして、本当の程度がわかってきて、良かったことがある。
私は頑張らないと生きていけないということだ。
楽して生きていけるほど能力も高くなく、大嵐が来ても堂々としていられるほど度胸もないので、なるべく動揺しないようにいろいろなことに頑張っていかなければならないのだ。
まあ、小さなトンボのようなもんである。
何が目標かわかんないが、ともかく一生懸命飛んでいないとエサにはありつけないのだ。
私とて、もっと悠長な人生でありたいが、それこそこれが神の与えし運命であり、生を受けて虫じゃなかっただけ、ありがたいというものだろう。
それは、先ほどの本の作者も言っているように「自分の醜い性格に気が付いたとしても、それは恐れたり恥ずかしがることでもない。育ちのせいであり、運命なのだ。」
とにして「そうだったのか!」と入っていったのが気が楽になってよかったのだろう。
考えたところでどうにもならない部分なのだ。
が、今は誰のせいでもない、自分の持って生まれた運命とはいうものの、恐怖への対処を卑怯に立ち回り、ごまかしてきたから、何の強さも備わらなかっただけのことであり、誰のせいと言うならば、やっぱり自分のせいでしょう。
気がつくのが遅かったので、ものすご未熟なまま歳だけを重ねてきたのであります。
なので、遅まきながらも。これから一つずつ生きていく力を身につけるしか残された道は無いということで、悩みの答えは簡単なのかもしれません。
惜しむらくは、もっと若い頃に早くこのようなことに気がつくなら、もうちょっとサワヤカで潔い人生だったように思うのですが、「今になって気が付かされる」それもまた神の授けた運命なのでしょう。
なんてことを考えていたら、やっぱり今日もそうのんびりしてはいられないようです・・・
なにしろ、まだまだ遅れているのですから・・・
おっと桜ももうすぐですね。
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