仕事ではないのですが
ちょっとの間、地元を離れます・・・成果はいかに・・・
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VHSだのベータだのビデオ戦争が話題になるような時代があった。
当然のごとく戦争になるぐらいシェアを争っていたので、かなり普及していたわけだ。
私は、どっちつかずなので、両方持っていた。
そして、独身でもあったため、それで番組を撮りだめし、遅くに帰宅しては、晩酌の肴にし、本当に楽しみにしていた。
当時「男女なんたらかんたら」というドラマやら「金曜日の・・・」が流行っていた時代じゃなかろうか?
酔っ払いながら見ていたこともあり、帰宅する前の日常からまるで失楽園に入り込んだかのようにうっとりして見入っていたものだ。
その他には「元気が出る・・・」「ひょうきん○」などのお笑い番組も好きで、やっぱりこれもかなり力を入れて見ていた。
楽しかったのだから、それで良いのだろう。
が、そんな生活は習慣となり、いわゆるTV好きの生活が続いたものだが、歳食ったせいだろうか、最近は見たい番組が少ない。
しかも、インターネットなんかで、マスコミや芸能界の常識が当然のように暴露されている・・・
そこに藤○ナントカと陣○ナントカの離婚騒動だ。
アホらし、と思いつつも、あっちこっちで見てしまう。
そして一通り見て思った。
芸能なんて、全ては作り事の世界で、それでも楽しければよいのかもしれないが、所詮は他人ごとである。ということを。
つまりは自分には何の役にもたたねば、害も届かない。
自分と全く無関係なところなのだ。
が、それがさも興味を持つように、面白いことのように、自分と無縁ではないことのように・・・思わされる・・・
それで魅入ってしまうのだが・・・何でなんだろう?と考えてみた。
うーんいわゆる「お客」になっているのであろう。
なんやかんや言って興味をそそられ、それらの情報のお客になり、いわゆるメディアの策に見事にハマっているのだろう。
そして、その見返りに「楽しみ」を与えられたような気にさせられていたのだが、実際は何のことはない「自分の大切な時間が奪われていた」だけのこった。
かつて、TVからは有害な電波が放出されているなどと言っていた人がいる。
直接的に正解ではないかもしれないが、ある意味正解かもしれない。
今回の離婚騒動とて、私にゃ何にも関係ないことで、これからの自分の人生にも全く影響しない。
そんなものを「さも重大な情報」として仕向けられていると思うと、そりゃ政治家にも簡単に騙されるはずだわさ、と思えるのである。
まあ過去のことは後悔しても仕方のないことだが、それにしても自分に何にも関係の無いTVの中の出来事に、よく夢中になっていたものだ。
そんな時間があったのなら、もっと自分に直接影響することに、時間を使っていれば、ちったぁマシな大人になっていたかもしれない。
最近のTV離れは、ちょっとぐらいは成長している証だとしたら、うれしいことだ。
小さい頃、親によく「いつまでもTV見てるとバカになるよ。」は当たっていたようだ。
それにしても昨日は寒い冬の海だった。
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昨日はブログにて自作自演でやる気を取り戻し、八割には満たなかったものの、六割程度の仕事の消化にはこぎつけた。
で、健康維持トレーニングはスタートがいつもより1日早かったこともあり、気分転換にそちらを優先。
軽いジョグとストレッチングでサッパリ。
こうなると飲んでしまう。
ところが、飲酒途中より、子供達の通う学校での問題が次々と告げられ、その話し合いで結局12時になってしまったのだが、ずっと無意識に飲み続けていたため、またもや二日酔いになってしまった。
自分でも「アホか?」と言いたいぐらいなのだが、なってしまうとこりゃまたなかなかサクサクとは行動できない。
いやー参った参った。
本当にいろいろと考えるようになったし、少しずつ努力もできるようになってきたのだが、「酒癖」だけは治らない。
たった一つ直せば、「救済法」の何十倍の効果があるのがわかっているのに、一番大事なところを治せない。
そりゃアル中だからだろうが、いつまでそんなことを言っていてもなぁ・・・
本当にだらしない。
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そしてとりあえず、今のところは先生が心配されていたような、自分を掘り下げることの弊害はあまり感じられない。
いや、むしろ正直な自分にときたま出会えるようになって、妙な安堵感がある。
さらには、そんな正直な自分を徐々にではあるが、出せるようになって、楽に感じることもある。
簡単に言ってしまうことはできないが、かつて自信満々に見えた自分は、虚勢のたまもので、実は本当の自信がなく、人目を気にし、評価を気にし、優秀な人と思われたいという欲で作り上げた「自分のなりたい虚像」のようなものだったのだろう。
そして本当の自分は猜疑心が強く、気が小さく、だからこそ、見え張りで、人によく思われたかったわけだ。
本当の自分を並べてみてわかってきたのが、「そりゃ何も大したことができんヤツ」だったのである。
いやさ、百歩譲っても「そこそこ生きてこられたら上出来」の部類であって、こんな低い能力と弱い精神力で、欲ばかりの多いこと・・・
自分でもあきれてしまう。
そして、本当の程度がわかってきて、良かったことがある。
私は頑張らないと生きていけないということだ。
楽して生きていけるほど能力も高くなく、大嵐が来ても堂々としていられるほど度胸もないので、なるべく動揺しないようにいろいろなことに頑張っていかなければならないのだ。
まあ、小さなトンボのようなもんである。
何が目標かわかんないが、ともかく一生懸命飛んでいないとエサにはありつけないのだ。
私とて、もっと悠長な人生でありたいが、それこそこれが神の与えし運命であり、生を受けて虫じゃなかっただけ、ありがたいというものだろう。
それは、先ほどの本の作者も言っているように「自分の醜い性格に気が付いたとしても、それは恐れたり恥ずかしがることでもない。育ちのせいであり、運命なのだ。」
とにして「そうだったのか!」と入っていったのが気が楽になってよかったのだろう。
考えたところでどうにもならない部分なのだ。
が、今は誰のせいでもない、自分の持って生まれた運命とはいうものの、恐怖への対処を卑怯に立ち回り、ごまかしてきたから、何の強さも備わらなかっただけのことであり、誰のせいと言うならば、やっぱり自分のせいでしょう。
気がつくのが遅かったので、ものすご未熟なまま歳だけを重ねてきたのであります。
なので、遅まきながらも。これから一つずつ生きていく力を身につけるしか残された道は無いということで、悩みの答えは簡単なのかもしれません。
惜しむらくは、もっと若い頃に早くこのようなことに気がつくなら、もうちょっとサワヤカで潔い人生だったように思うのですが、「今になって気が付かされる」それもまた神の授けた運命なのでしょう。
なんてことを考えていたら、やっぱり今日もそうのんびりしてはいられないようです・・・
なにしろ、まだまだ遅れているのですから・・・
おっと桜ももうすぐですね。
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人間だって所詮は虫や植物やほかの動物たちと一緒で自然の生き物だ。
生き物である限り、生きようとしなければ、生きられないようになっているんじゃないだろうか?
結局は自助努力が必要なのだろう。
「心」というものは人間独自のもののように言われるが、なら、大雨をよけるように葉陰を探したり、くもの巣をよけるように注意深く飛んだり、生き延びるためにすべての生き物が努力をするように、自分の心についても努力が必要なんじゃなかろうか?
私は徐々にそう思えるようになってきている。
大袈裟に言えば自分の心の傷は自分で癒すしかない。
心の病とて助言をもらえることはあったとしても、結局は「治したい」という気持ちがないことには、他人では治せないのではないだろうか?
まあ、専門家の先生はそのあたりをわかっていて、「生きようとする気持ち」を時間をかけて丁寧に呼び起こそうとしていると思うのだが、自分自身で気が付けば、その方が早いように私は思う。
よく、「それができないから心の病なんだよ」と聞くことがある。
ま、そういってしまうと、本当におさまりの無い話になってしまうので、要は私の場合は妙なところにも「性分」がはたらいて、自分でいろいろとやってみているのである。。
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私のお世話になったお医者さんは不出来ではなかった。
むしろ「なるほど」というアイデアをたくさんいただいた。
しかし・・・心の病は手術をするわけではないので、「相談」で治ることは無かった。
そうではない患者さんももちろん居られるとは思うし、ひょっとしたら私程度は「患者」の部類に入っていなかったかもしれないが、医者に通って話を聞いてもらうだけで治るということ自体に信用できないものがあった。
ある意味性分通り、やっぱり他の人をあまり「信用していない」のかもしれない。
というか、納得できる仕組みでなければ信用ができないのだろう。
ものすごく猜疑心が強く慎重なのかもしれない。
通うことにも慣れ、その割には効果を感じられないと・・・「悩みとどう向き合うか?」のヒントのようなことはお医者さんに与えてもらえたとしても、それをどう取り入れていくか、どう対処していくかは、薬ではなく、結局は自分の行動にかかっているんじゃないか?と思い始めた。
自分では行動する気になれないから「心の病」などと言うのだろうが、じゃあ、同じ「病気」であっても、癌になり余命が3ヶ月と言われても、生きようとして頑張って3年も5年も生き延びられる人も居るのは、やっぱり自分にかかっている部分が大きいのではないのだろうか?
私には余命が宣告されるような癌だったり、身体が不自由な病気と、「心の病」が対等には思えないのだが、それでも同じ病気とするならば、癌や身体の不自由ささえも自分で乗り越えなければ生きられないとするなら、心の病とて、結局は自分でなんとかするしかないんじゃあないのだろうか?
心の病で苦しんでおられる方には非常に厳しい言い方かもしれないが、人間だけでなく、生き物なんて、もともと自分で生きようとしなければ、生きていけるわけがないモノじゃないのだろうか?
自然界にとっては人間の心なんて屁理屈のようなものであって、なんとしてもメシを確保しメシを食う、その競争に勝てない生き物が絶えていくのが自然である。
それは人間以外の生き物にとっては「厳しい世界」ではなく、当たり前の世界だ。
ならば、半分は自然界の生き物の人間とて、そこに身をおいているわけであって、頑張れと言われるのが一番つらかろうが、頑張っていくしか方法はないのではなかろうか?
鬱の治療では「頑張れ!」というのが一番よくないと聞いた。
もうこれ以上頑張れないから鬱になっているのであり、その痛んだ心をさらに踏みつけるダメージを与えるからだと・・・
専門医の言われることなので、たしかにそうなのだろう。
が、「もう頑張らなくてもいい」のだったら、毎日何やって暮らしていくんだ?
どう見ても人生楽なことや楽しいことばかりではないのに・・・
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私は心の病気の専門家でもないし、正しい処置をしていないのかもしれないが、自分の体験からすれば、奇遇なことに、私の性分であった結局は「自分で解決するしか」ないようにもいつのまにか思えている。
そう思うようになったキッカケは実は専門家の先生の助言ではなく、その助言をいただくための長い待ち時間に読んでいた本というところも皮肉なのだが、そこにそれらしきことが書かれていて・・・
先生の助言を待ちきれない私はちょっと実行に移してみたのだ。
その第一歩は「本当の自分を知る」ことから始めてみた・・・
別に誰にも言う必要もないので、自分自身を正直に見直す作業をしてみたのだ。
作業といっても特別なことをするわけじゃない。
日常行動での自分の正直な心境をもう一度確認してみるのだ。
こんなこと案外人間はしない。
だから知っているようで知らないというか、私の場合は正直な自分と見せている自分に「恐ろしいほどの開き」を発見することが多いこと多いこと・・・
で、あまりの自分の醜さに先生に相談すれば、「あんまり自分を掘り下げるのは良くないと思うよ・・・もう少し気楽な方向に物事は考えないと・・・」
とおっしゃられた。
たしかに醜い自分を認めるのには苦しんだ。
もうちょっとはマシな人間だと思っていただけに余計に自信も喪失した。
が、いつしか先生に注意されても、なんだか真実を知る作業のような気がして・・・いや、自分の根っこを正確に知らなければ、育ちかたを治すこともできんだろうと、事有るごとに自分の心理を確認することがクセにもなった。
そして、それだけで気が済まず、過去の自分の心理を分析したりするようになった。
先生はやはり「反対」した。
が、「思い込もうとしている自分」と「正直な自分」のあまりの違いが次々に確認できると、自分のことながらもっと知りたいという欲求も出てくる。
そして、過去の自分の分析をしたりして、「そりゃその後こうなるわけだ」と過去の事実が今になってようやく納得したりするようになったのだ。
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大人になるのが遅れた私は、挫折を知るのが遅かった。
本当はとうに挫折しているのだが、それをゴマかしてきた。
だから、頑張る気持ちを育ててもこれなかった。
ただただストレスのない生活を求めて、堂々巡りの生活で、進化のない時間を10年以上は過ごしていたような気がする。
で、ある日突然、気が付いたら、どこを向いても壁ばかりで、身動きできなくなってしまった。
そして、どうしようもなくなって専門医を尋ねた。
いや、これからとて悩み相談に出向かなければならないかもしれない・・・
が、今現在気が付いたら、「救済法」とか言っちゃって、結局自分でどうにかしようとしている・・・
もうこうなると良い悪いの問題ではなく、こんなところまでも「性分」といういうものなのか?と
自分でもはたと今朝気がついたのである。
今ある救済法とて言葉にすれば簡単だが、10年前ぐらいからだろうか?
乗り越えられないことが多くなってきて、乗り越えられなくとも、逃げるわけにゃあいかないし、最低限やり過ごさなければいけない。
そんな心得のなかった私は、何度もくじけ、何度も嘆いて、少しずつ「そうなのかなぁ?こうなのかなぁ?」と拾い集めてきたようなことだ。
今だって悩みはつきないので、新たな解決法はないものかしょっちゅう探してもいる。
でも、結局はやっぱり自分でどうにかしようとしている。
そんなことをするより、お医者さんに相談した方が早いかもしれないのに、何故か自分でどうにかしようとしている。
いや、心の問題に関しては、最近ようやく「自分でどうにかしようとするように」なってきた。
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先日の水漏れも結局自分で修理をした。
そう器用じゃないし、知識があるわけでもない。
そもそも面倒臭がりだ。
でも、結局自分でやることが多い。
剪定ぐらいならまだしも、庭の地ならしから、塀作り、駐車場も自作だ。
もちろん植木は全部自分で植えている。
最近でこそパソコンは買ったものだが、以前は全部自作していた。
トレーニングもジムに行って教えてもらうようなことはしない。
自分で考えて勝手にでかけて行っている。
お金がもったいないということから自作に至ることも多いのだが、根源は違うような気がする。
そもそも、そうドケチではなく、使うときには思いっきり使ってしまうので、カミさんによくしかられるぐらいだ。
あんまり人を信用していないのだ、と思う。
専門家と言われる業者に頼んでミスをされた経験が多いのかもしれないが、どうにも納得できない所作を見てしまうと・・・自分でやった方があきらめがつく・・・ように思えてしまうのだ。
時代が時代だったせいもあろうが、学習塾も体験していない。
自分で納得できるやり方を見つけた方が効果的じゃないかと思っていたのかもしれない。
こんなことは考えたことがなかったが、これが「性分」というやつなのかもしれない。
でも、ものすごく遠回りになっていることも多い。
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週末もわずかだが、毎日仕事をしていたので、仕事の夢まで見てしまった。
スケジュール帳を見てもかれこれ2週間ほど続いているのだが、ちょっと飽きてきたのか月曜日だというのに、どうも気乗りしない。
天気も良いのにそんなことではいかんだろうと、いつものように体操をして目を覚ます。
気が付けば桜もそろそろ咲きそうだ。
週末にちょっとした買い物があってひさかたぶりに自転車に乗ったのだが、子供用のサドルの高さのせいか、近所に平坦なところが少ないせいか、けっこうももにきた。
若い頃には自転車なんざ久しぶりに乗っても楽なもんであったのだが、やっぱり使わない筋肉が相当に衰えていく年代になったとみえる。
たまには自転車に乗らなければ。
今週こそラストスパートなので、あんまりノンビリもできないのだが、気分転換にブログからのスタートである。
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間もなくちょっとの期間自宅を空ける用事があり、仕事もそれまでにやり切れるだけやり切らねばとしている上に、用事の準備もしなくちゃならんし、先週ぐらいからけっこう大変なことになっている。
その上に風呂の混合栓が壊れたりするもんだから、修理にまで加わって、せっかくの3連休もあっと言う間にあと半日になってしまった。
まだまだやることたくさんあるが、疲れてきたのか?飽きてきたのか?能率が悪くなってきたので、休憩だ。
あと半日。
出来る限りのことをやらねばならないので、ここらで昼寝でもしよっかな?
無計画なまま、ただひたすら所用を片付けている。
こういうのは充実とは言わないような気がするのだが・・・ま、そんなことを理屈っぽく考えている暇は今はない。
昼寝で鋭気を養った方がマシだろう。
毎度のボランティアも本日は雨で中止。
雨で助かることもあった。
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月曜朝の失態を反省するかのように、その後は巻き返しに出ている。
昨日も仕事終了の後筋トレ・夕食をこなした後、もう一度仕事なんかしちゃったりした。
おかげで寝るのは午前様だったが、テンションが高いためか、6時半に目覚めてしまった。
ただ、けっこう酒は飲んだ。
飲みすぎて「こりゃいかん」と途中でやめようとしたものの、その後缶ビールを2本追加した。
「明日はアウトかな?」と思いつつ。だ。
で、意外にもアウトではないのだが、それにしても自分の優柔不断さをリアルに実感してしまった。
たまたま今回は運が良かっただけ。
気をつけなければ・・・
話は変わるが、関係するとある会で善意の基金協力の発案があった。
私にゃ正直どっちでもよいのだが、善意ある行動なのでなんら異論もない。
が、これにやたら反論を言う輩が居る。
私から見れば、そんな正論?(とは思えないが、自分らでは思っていらっしゃるようで)を堂々と言われるほど、普段の行動が立派とも思えない。
言っちゃあ悪いが、自分の行動規範には甘いくせに人の倫理には厳しいという印象だ。
「言論の自由」「平等」のもとに、なにかと人のしようとすることにちゃちゃを入れたがる人が増えているような気がする。
政治や経済というよりTVや新聞の中で起こっていることが、さも身近にもあるように識者ずらしている。
単純に言うなら、ともかく文句を言うことで「あの人はやっぱり違うわね」と認められたいという欲望が透けて見えるようで気持ち悪い。
嫌なら自分が参加しなければいいのだし、やりたい人にまでブレーキをかけるのは、ものすごく偉そうなことだと思えるのだが・・・
ま、そんな争い?を耳にしたので昨晩は寝付けなかったのかもしれない。
昔ならムカついて私もご意見番に登場したかもしれないが、自分がそれほどの意見を言えるような人格でもないことを少しはわきまえるようになったのか、人は人、自分は自分と、まずは自分が一生懸命生きられるようになってからでないと、とてもそんな人に忠告するなんざ、偉そうな態度はとれないと、
あえて言い聞かせたりしています。
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言い訳を長々と述べても仕方がないが、普段は帰宅の遅い私も仕事の流れで割と早め(それでもけっこう遅いが)に帰宅できることがある。
普段はあわてて飲むお酒も、ちょっとゆっくり飲めるのでうれしい日でもある。
昨日はまさにそんな日になってしまった。
もちろんそんなことで「決意」がゆらいではいかんのはわかっちゃあいるが、仕事もなんとか8割程度は消化でき、帰宅前には軽いジョギングとストレッチングも済ませることもできたので、「全体的に8割良し」に日に収まったと実感してしまった。
非常に自分に甘いのだろうし、だからいつまでたっても二日酔いを繰り返すのだろうが、とりあえずのリカバリーができ、台無しにしなかったことで満足したい。
ってなわけでまた飲んでしまった。
しかし、神様の罰だろうか、なんだかそれほどたくさんも飲めなくて、定量(これがけっこう多いのだが)より缶ビール1本少なく終わった。
普段だと「もう一本飲める」として、どっかで飲もうとするのだが、その一本だけはやめておいた。
ささやかな抵抗というものだろうか?
その「ささやかな抵抗」のおかげで本日の目覚めは昨日よりは良い。
よって本日は昨日よりはちと前向きに仕事に取り組めそうだ。
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そう言いながらも夕方になるとまた「飲みたくなって」しまうのだろうし、飲まないと寝付けないということもある。
酒を飲む快楽が好きというだけではなく、味覚的にも好きなのだから、なかなか止めることもできない。
が、いろいろなことで努力をし、少しでも快適な一日を過ごそうとしているのに、未来や将来の不安に怯え、今という瞬間を過ごすことを台無しにしてはいけないということにようやく気が付いてきたのに・・・気軽な一晩の飲み過ぎで、翌日を棒に振ってしまうそのことを、いい加減やめないと。
アル中になる、いや、なっていることじゃなく、翌日を台無しにしていることを反省したいのだ。
どんなに他のことを細かいところまで頑張ろうとしても、頑張る気持ちがなくなるほど飲んでしまえば、考えていないのと同じ一日だ。
大袈裟に言えば、全ての努力を一晩の酒で自ら台無しにしているのだ。
アホみたいなもんである。
できないくせに言うのもなんだが、きっとこれ以上の努力を追加しなくとも、「酒」をやめるだけで一番の変化があるのだろう。
いや、私の場合は何よりも「酒をやめること」が一番「自分の希望」に近づく方法なのだ。
原因は簡単だった。
本当は最初からわかっていたことだけど回り道をしてきてさらに確信した。
あとは決意と行動のみなのだ。
が、あまりにも「逃げ道」が多すぎる。
だからアル中になるのだろうが、今週はもう一度酒をやめることに特化してみたい。
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ということは、問題はこのブログの開設当初に戻ってしまったのだが、これまでの期間は要するに突き詰めても「酒」だったことを長々と証明しているようなものだったのだろう。
「だろう」なんていうと、まだまだ「他のせい」にしそうな姿勢だが、まあ、言い逃れできないぐらいには自覚もしてきたというところまでは来たようだ。
たしかに他にも正さないといけないところは多々あるが、自分が「前向きに生きられない」「スッキリしない一日を過ごしてしまう」「やる気が出ずに仕事や用件の消化ができない一日にしてしまう」原因のほとんどが「酒」だ。
私の場合今のところ100%と決め付けてもいいぐらいだ。
そもそもこんなくだらんことをグダグダと書き連ねていること自体無駄な時間でもある。
まあ、今日は自分を戒めるために仕方ないとするが・・・
それにしてもいい加減わからなければならない。
それは直接的な肉体の健康のためではなく、結局酒を飲んでいる時に気分がよくなりたいがために、酒を飲んでいない時を犠牲にしている「過ごし方」がもったいないということに。
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ブログを始めたきっかけも、あまりのアル中さに嫌気がさし、どうにかやめさせたい(自分に)からだったのだが、その原因を追究していく途中で「飲みたくなる自分」の中身の改善にばかり目が行くようになり、そこに追い討ちをかけるように景気の低迷が訪れて、まあそれどころじゃなくなって、
いつの間にかアルコールことについて悩んでいる暇もなくなってきていた。
が、そうやって頑張ろうとしているのに、頑張れないときは、「雨」または「飲み過ぎ」であることが案外ハッキリしてきたような気もする。
自分の内面に問題がないわけでもないが、飲みすぎでなかったり、雨でなかったりするときにはけっこう頑張れるのを見ても・・・原因は「雨」と「飲み過ぎ」であることが多い。
「雨」という無茶ぶりなせいも、結局は「飲み過ぎ+雨」ということにもなろうから、とりあえずの一番の問題は「酒」だと言い切れるだろう。
いや、視点を変えてみれば、私の生活から「酒癖」を正せば、けっこうマシなものである。
いや、せっかくマシになりかけている生活が「酒」によって台無しにされている時がものすごくある。実際ある。
ということは、私の本質的な問題は「内面」ではなく、まずは「酒」なのだ。
「内面」など、その次に考えればよいぐらい、「酒」の悪影響がものすごくある生活習慣のようだ。
ようだ、ではなく、絶対そうなのだ。
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トレーニングだ、救済法だと頑張っているようなことを言ってはいるが、私にはこのマイナス行動も実に多い。
タバコは吸いすぎるほどではないが、何本も連続で吸うこともあるし、タバコを吸いたいがための休憩も少なくない。
アルコールなんて最たるもので、ほとんど毎日飲み過ぎていて、酒代も無駄なら、時間も無駄だし、何しろ健康にかなり悪いほど飲み続けている。
家族にからみはしないが、それでも話が長いと面倒くさがられる。
そして、翌日はこのようにやる気をなくしカラダもだるくて仕事が進まない。
やる気を出そうとするために、余分な努力が必要になる。
私にとってアルコールは百薬の長ではなく、百害あって一利なし、なのだ。
他の面のマイナス行動はけっこう減らしてきたと思うのだが、それを全て台無しにするぐらい酒癖が悪いのだ。
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昨晩は飲み過ぎた。
毎週末の恒例行事により土日と忙しく、おまけに女房と子供まで風邪をひいてしまい。
食事の支度やらなんやらで、食事時にはその解放感というかなんというか、飲んだくれてしまった。
翌日が月曜日の際は注意するようにしているのだが・・・もう、一旦飲んでしまえば「なんとかなるだろう・・」となるのも毎度のこと。
そして月曜日・・・
「できれば眠り続けたい状態」を「絶対に起きなきゃいけない」と自分に言い聞かせ、無理から起すにはまず成功した。
次には身支度を省略することなく行って、頭を覚まさせ、ともかく出発することにも成功したが、
全くやる気が出ない・・・というか、気持ちも悪いし、だるくて仕方がない。
以前なら、こういった日はここから半日、いやさ夕方頃まで、病人のように過ごしたものだが、仕事がたまっているのでそうもいかない。
で、途中で体操をし、なんとかもう一度気分を持ち直した。
そのおかげで会社にたどりつくまでも成功したが・・・なにしろ無理矢理していることなので、後遺症がやってきた・・・
いかん、二日酔いはよくあるのだが、これはいかん。
相当に飲んでしまったようである。
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というものの、風邪をひいて以来、ようやくちょっと整理がつきだした。
もちろん月曜日次第じゃああっという間にふっとぶほどの片付けようなのだが、それでも多少の「ほっ」とは欲しい。
で、世間を久方ぶりに見回して見るのだが、まあ、本当にこれでよいのか?という始末だ。
誰もが未来というよりは、5年先、来年、いやさ来月さえわからない状態なのではないだろうか?
「こんな日本に誰がした」と言いたいぐらいである。
でも、国民である以上私とて、無関係ではなく、私も「そんな日本」にした一人なのだろう。
よくわからないが、30年ほど前の私の青春時代はなんだかもっと気軽だった。
そりゃよくないことだとは思うが、それが許された時代というのが、本当の豊かさのような気がする。
今の若い子らのことは全くわからないが、本日出かけた郊外スーパーは、駐車場も待たされるほど超満員であった。
これでどうして内需がよくないのか?
まったくツジツマの合わない国になったということか?
だから余計に誰も頼れないし、信頼できない。
で、自分が頑張るしかない。
と、私は思ってしまうのだが、皆そう思うのだろうか?
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大したトレーニングなどしていないのだが・・・そのわずかな健康運動でさえ、最近はダメージが残る。
「その後」の多量の飲酒やタバコも原因なのだろうが、そんなこたぁ若い頃と変わっちゃいない。
運動量が減ったのに、ダメージだけが強くなっているのだ。
調子の良いときもある。
が、そんな時に限って調子に乗り、体調を崩してしまう。
若いつもりではいるのだが、所詮生き物なので確実に体力は衰えている。
多少のトレーニングや気力で補ってはいるものの、自然現象には勝てないということなのか?
顕著な例はアルコールに対する弱さと、薄くなった頭と老眼だ。
きっと内臓や筋肉だって同じことなのだろう。
と、するなら若い頃と同じスピードや同じ質量のトレーニングは効果よりも、ダメージが大きかったりはしないだろうか?
例えば水泳。
同じつもりで泳ぐことはできても後々のダメージがでかい。
トレーニングもそう。
そして結局、故障したり、風邪をひく。
だから、「やらない」では、ますますひどくなるのだろうが、ここらでもう少し、ゆっくりやってみるというのはどうなのだろう?
丁寧にというか時間をかけてというか。
そういうことを今以上に意識して・・・
世知辛い世の中で忙しいことはわかっているが、仕事だってそうだ。
急ぎすぎるから結果間違いが多くなったり、やり直しになるのなら、もう少しゆっくりやってみるというのはどうなのだろう?
案外結果もよくなったり、気力も長続きするるのかもしれない。
そういや昔を思い出しても、子供の頃のプラモデル作りなんか、一挙に作ってしまおうというタチだったので、メシも食わず、眠ることもせず、ひたすら早く仕上げることに没頭し、完成品は酷かったことが多い。
もともとに「急ぎすぎる」性格があり、その結果が案外努力ほど報われないというか、逆の目に出てしまっていたことは昔からあるようだ。
その反省もわきまえて。
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やっぱり晴れの日は気持ちがよい。
極めてフツーなんだろうが、皆そう思うのだろうか?
若い頃は「特別には」そんな気持ちにならなかったような気がするのだが、まあ、いろいろ重苦しいことばかりで、「晴れているだけ」というささやかなことですら「ありがたい」と思えるのかもしれない。
面倒臭い朝も晴れていると少しは前向きになる。
最近は猛烈に忙しいわけではないのだが、少しでも多く仕事を抱えようとしてあまり暇がない。
本も読めなければ整理もおぼつかない。
悩みもあるのだが、悩んでいる暇がなく、いろいろ片付けてからでないと落ち着いて悩む気にもなれない。
よって更新も途絶え気味。
ただ、最低トレーニングと体操だけは細々と続いている。
それと救済法の心がけ。
まあ、そんなところで今日も始まる・・・
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今となっては、何が何だかわからないが、ともかく疲れてしまったので、今日は眠るとするしかない。
そんな眠り方をするようになったのも4年前ぐらいからだろうか?
自分では「くだらん悩み」なんて思うはずもないのだが、ともかく「悩んでいる」体力も脳力もなくして眠たくなる。
そんな眠り方が訪れるようになって変わったことも多い。
今はただそれだけ。
ともかく眠って明日を迎えよう。
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自分のためのブログだけあって、役にたつときもある。
なんだかめちゃめちゃ忙しい・・・と言いつつ、一体いつから忙しいのか?と思って振り返ればおそらく水曜日あたりからのようだ。
まだ、3日しか、忙しくないのであるが、それでもやりきれずに自宅に仕事を持ってきている。
ここんところ毎週そうなのだが・・・趣味人であったかつてなら、こんな忙しさにすぐにめげていたし、いらついてもいたことだろう。
が、こんなご時勢でもあり、実入りはともかく、仕事があるだけでもありがたいといった気持ちになれるようになったのは自分でも不思議だ。
もうちょっとポジティブになって、「仕事に燃える!」ってとこまで言い切れると格好良いのだが、正直まだまだそこまでには至らない。
でも、趣味は所詮趣味であり、お金は使う一方で、それはそれで有意義なこともあるのだが、まさに自分の快楽のためだけにやっているのであって、仕事の充実感には至らないというのもなんだかわかるような気がしてきている。
長引く不景気や格差社会の現れだろうか?TVドラマでも「働く人々の姿勢」を中心に置くドラマが多くなったように思う。
私の青春時代は「男女7人○物語」や「○曜日の妻達」といった、仕事以外に熱中する様を描いたドラマが多かったのと比べると大違いだ。
それだけ再び「働くこと」にスポットが当たってきたというか、当たり前だが、遊びより「重要」な位置にようやく戻ってきたのかもしれない。
「メイちゃんの執事」なんてドラマもやっていたが、ある意味あれでも「仕事への取り組み方」だろう。
私もドラマになるような格好よい仕事をしているわけでもないし、まだまだ仕事熱心とも言えないが、仕事を頑張ろうとしている芽が出てきたことは大切にしたい。
こんな歳になって気付くとは、遅すぎるほど遅すぎるのだが、まあ、それは高度経済成長のさなかに青春を過ごした、「ゆとりある世代」ならではの至らなさであり、遅すぎてもこれから追いつこうとするしかないのだろう。
ま、それでも、最低トレーニングは消化できたし、インフルエンザの後遺症からは復活できているようだ。
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めちゃめちゃ忙しい。
が、これを金銭で換算すると、全くたいしたことないのかもしれない。
「しれない」ということは実際に検証していないからなのだが、今はむしろ「それ」をしない方がいいかと思っている。
こんなご時勢であっても、なんだか忙しい。
儲かる、儲からない、といった尺度を持ってくるなら、多分「暇」になってしまうであろう。
もちろんそんな余裕がないこともあるのだが、なんだか日本の尺度が変わってきているような気もする。
なので、わけがわからんが、「めちゃめちゃ忙しい」でいいんでないの?と思うだけなのだ。
ま、そんな期間が続けばうれしい悲鳴であって、ついこの前までインフルエンザでたっぷり休養できたぐらい余裕があったのだから・・・
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整理仕事が進まない。
正確に言えばものすごく遅い歩みで進んでいるのだが、なかなかはかどらないということ。
そこで救済法その7「8割でよしとする。」
まあ、とっかかりからすでに「1000分の1でいい」などと許容範囲を広げているので、その8割というと10000分の8になってしまうのだが、それも許すということ。
誰も見ていないからではない。
ささいなことをできなければ、それ以上のこともできないと思うのだが、ささいなことなら全部できるというのもまたうぬぼれたことだ。
ささいなことでさえ、なかなか完璧にはできない。
所詮自分はそんな程度。
だから、8割できていれば、やらないよりはうんとまし。
そうしてやろうということ。
自分への甘やかしかもしれないが、実際ささいなことだから10割と言われても、そう完璧にできることも少ないわけで、その都度「できなかった」と達成感を味わえなければ、続くものも続かない。
できなかったらダメだ、ではなく、できなかったらまたやればよい。
そんなところが8割なんじゃないだろうか?
ま、7割でもいいんだけど・・・
ともかく、やったことが完璧でなくても、やったこと自体、やり続けていること自体で「よろしい」とすること。
自分を満足させてやることも大切だ。
こうみえても意外に完璧主義者なので、ついつい凝りすぎてしまったり、一つのことに行き過ぎて次に向かえない。
そんな自分の欠点を補おうとしてもしているのだ。
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こんな生活の繰り返しで、思考も習慣化されていっているのだと思う。
目標と仲良くしていなかった生活が長かったので、なんとなく、なんとなくにしかわからないが、今楽しいことより、先につながることを見つけようとしている。
そうなると、今楽しいことは二の次であり、趣味にも興味がなくなるのだが、それも別段悪くないし、虚しくもない。
特別ストレスがたまるわけでもない。
いや、何もかもに目標などすえつけられるはずもないのだが、知らぬ間にけっこう細かなことまで手を抜かずにやっていたりする。
そういうのが姿勢というならば、その姿勢のおかげで忙しくってしょうがなくなり、けっきょくまたまた遊ぶことから遠ざかる・・・
でも、そんな生活はそう悪くないのである。
ちょっと忙しすぎるかな?とか思うけど、もっと忙しい人は居るだろうし、そういうのを昔は大変そうだな?って見ていたのが、いや、忙しくってものすごく楽しいんだろうな?と思えたりするようにもなってきている。
私を年中無休にさせたボランティア活動は思考まで影響を与えているのだろう。
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それはそれで貴重な体験で後悔することもないのだが、まあ、本当にただ本当に自分が楽しみたいだけに多くの時間を費やしたのだから、もういいだろうと思うようになってきている。
かといって私の言う「目標」はそんな大それたことではない。
賞や資格を得ることばかりでもない。
よくわからんが、ともかく目標があるということで、ものすごく姿勢が変わるように思うのだ。
「楽しさ」ばかりを追求すれば、嫌なことは避けるであろうし、つらいことなどするはずもない。
ややこしいことなど手をつけるはずもなく、結果「逃げてばかり」にはならないだろうか?
そんなところが目標のなかった時代には自分も多かったのではないだろうか?
目標が「楽しさ」であるので、それを妨害されると妙に腹が立つ。
自分の「楽しさ」に迎合できない人間は許せない。
まあ、思い出すとお恥ずかしい限りなのだが、実際私はそうであった。
せっかくわかりかけてきたのに、もう一度「そこ」に戻る必要はないと思うのだ。
目標があるとつらいことにも耐えられる。
目標があると一人の孤独にも耐えられる。
目標があるからこそ頑張れる。
さればこその感動や喜びがある。
そんな世界の「楽しさ」は「楽しいことが目標」であるときの「楽しさ」とは随分違うことにちょっと気が付いてしまったのかもしれない。
結局今は全然趣味から離れてしまっている。
が、寂しいことも虚しいこともつまらないことも一つも無い。
むしろ以前よりは充実した生活を毎日過ごしている。
けっして大きな目標などないし、忘れてしまっているときも多いのだが、まず第一に「楽しいこと」から追っかけていたときの楽しさを思い出すことはあまりないということだ。
それを思っても、人生楽しいことだけが良いことでもないようだ。
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いろいろな書籍や多くの偉人が「目標をもつことが大切だ」と言う。
わかっちゃいるが、当たり前すぎて、意識しないどころか、反抗すらしたい文句でもあった。
なので目標に向かって努力する・・・ことにはわけのわからないアレルギーもあったような気がする。
でも、その(目標)の大切さを私に教えてくれているのが、先ほどから言う週末のボランティア活動だろう。
なんて、最近気がつき始めた。
この活動を始める前は、超の字がつくくらい自己中で、週末の楽しみは自分自身が楽しむことであった。
自分自身を楽しませることと言ったほうがよいのかもしれない。
具体的な目標などなく、「楽しかった」と思える一日を過ごすことができればよかったわけで、それが結果としての目標のようなものであった。
となると楽しくないことは嫌であり、ささやかな努力を押し付け合いにもなる。
楽しくないことが起きれば不満残る一日となり、いわば目標は自分が「楽しいーっ」と思えることだったのかもしれない。
そんな生活が長かった。
が、マスターベションに快楽あって感動がないように、ただただ「楽しけりゃいい」って生活には感動が無いことが、ささやかなボランティアのような活動からでさえ教わったような気がしている。
もう半年もすれば、今のボランティア活動は多分消滅する。
そうなるとその後の自分の過ごし方がどうなるか?だが、なんとなく前のようにはならない気がしている。
同じような遊びをするかもしれないし、新たな趣味を見つけるかもしれないし、何にもしないかもしれないが、前と同じような生活はもうしないような気がする。
自分に目標がなくなったら、誰かの目標への手助けでもいいように思う。
趣味でなくて仕事でもいいし、家事でも家族のことでもいい。
もうしばらくは目標に参加していたいというか、せめて人生リタイヤするまでは目標に触れていたいと思うようになっている。
いや、そうでなければと思いはじめている。
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・・・実際ボランティアというようなものではないのだが、まあ、ある種のお手伝いがある。
もう4、5年続けている。
不思議なもので最初の頃はどっかで自分が目立ちたかったようなところもあった。
変な話「お手伝い」なので、主人公より目だっていいわけはないのだが、お手伝いとしての優秀さを認めてもらいたいようなところがあった。
が、不思議なことにそれが徐々に薄れてきている。
いや、新人のお手伝いで私よか熱心な人であっても、その方法が私と食い違ったりすると、カチンときたものだが、それは違うんじゃないのか?と思えてきている。
必ずしも自分の方法が正しいわけじゃないし、枝葉を気にして目標がズレていくことの方が問題であって、それがなければ、多種多様さを認めていくというのはいいことなんじゃないかと・・・
そう、こんなお手伝い活動だが、ささやかな目標がある。
そういったものに向かって地道な努力を続けたことのない私は、日日の枝葉ばかりを気にしていたのかもしれない。
まわりから見たらくだらん活動かもしれないが、この4,5年、ひょっとしたらものすごく勉強になっているような気がする。
さ、体調もよくなってきたし・・・トレーニングも徐々にできるようになってきたし・・・今日からまた仕事をできるだけがんばろう!
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気持ちの良い朝です。
休み2日間ボランティア?活動が朝から目一杯だったので、疲れは残っているのですが、天気のせいか目が覚めるにつれ清清しくなってきました。
本来これで良いと思うのですが、現代人はせっかくの気持ちの良い朝まで、将来の不安で感じられなくなっているのではないでしょうか?
そういう私もその一人であり、悩みや不安が大きな日は、せっかくの気持ちの良い朝に気が付かないことが多いのでしょう。
どうせいつかは死ぬのであれば、いや、そうだからこそ、気持ちのよい日にはその気持ちよさを感じないともったいないように、なぜだか今日は思いました。
ずっとこのような思考ができると良いのですが・・・
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