全くたいしたことないんだけど・・・

とある趣味を停止した。
「とある」というのは、とても人様に言えないような趣味だからだ。
「停止」というのも、なんだか中途半端だが、「やめた」というほどの勇気もないので、「とりあえず」といったところだ。
この趣味は・・・というか、正確に言えば趣味といえるようなシロモノではないが、ある意味「趣向」のようなものだが、この「趣向」はインターネットの発達によって徐々に私の前に舞い降りてきた。
最初は恐る、恐るといったカンジだったのだが、ある程度精通すると、知りえた者だけが得を出来るような錯覚に陥り、「こんなくだらんこと早よやめな」と思いつつも、ついつい手を伸ばしてしまう。
まあ、そういった類のものである。

で、それだけ熱心に作業するのだが、実際その後に利用することはない。
まあ、ある意味、家具作りに熱心な人が作ってしまうとそれを使おうとしないのと同じだろう。
だから、有益な趣味ではなく、単なる意欲の消耗でもあろう。

理屈はわかっちゃあいるが、一旦やめても思い出したように始めてしまう。
そして、なにしろコンピューター上での作業なので、仕事の合間に、メールの合間に、バックアップの合間にと、いつしかついついスキ間を見つけていそしむのが習慣になってしまう。
そして、気がつけば、本業よりも、そちらの作業を優先したりしている・・・

で、「こりゃいかん」と毎度気がついて、何日間、何週間たって、「もうやめなければ」と、思うのである。

こうして書いているほどおぞましいことでもなく、他愛もないことなのだが、それでも本当に「使いもしないことだから」無益なことなのだ。
それを優先して時間を使ってしまう自分をかえりみると・・・ま、アホらしいの一言なのだが、夢中になっているときはそれに気がつかないのである。

ま、とにかく今回の波はどうやら一山超えたようで、少し気も治まっている。
今週はそのせいでもないだろうが、少々体調も悪く、気分が乗らなかったので、仕事の出来が悪い。
だから、余計に反省材料となっているのだが、まあ、こんな歳になってまで、意味もなく、くだらんことに熱中するのはなんだかオカシイ・・・

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まさか・・・

こんなことでブログを書くことになるとは思っていなかったのだが・・
まあ、ちょっと今宵は娘と少し濃い話をした・・・
けっこう交流があるので、今更感動するようなことでもない。
が、青春時代を聞き役になるのがなんだか妙に面白い。

間もなく50歳だから当然なのだろうが、「変な夜」であった。
まだまだ主役のつもりではいるが、これからの主役に期待もしたいし、そのためなら自分が主役を降りてサポートにまわる方がよかろう・・・
またしても、そう思える夜だった。
そんなことで気分がよくなること自体が、歳なのかもしれないが、悪いことでもなかろう・・・

と、ノンビリ構えたいのだが、実はそうはいかない。
もう、眠いし、酔っ払っているし、どうにもならんのだが・・・仕事がいーっぱいたまっている。
理想と現実はうまくかみあわん。
少しでもやっておきたい気持ちもあり、少しでも寝ておきたい気持ちもあり・・・
なんだかよーくわからん。

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なんやかんやと忙しくて・・・

2009040901 ブログは一番後回しになっている。
まあ、それは悪いことだとは思わないのだが、正直それだけ余裕の無い生活ではある。
あっと言う間に一週間も過ぎる。
当然花見もできない。
で、勤務途中で見かけた桜並木をパチリっ!
って、これでも十分満足。

そもそも今まで花見の宴会というものを経験したのは2度ほどしかない。
貧相な人生かもしれないが、”今年の花見”とて夜のジョギングと朝の体操とそして今回の勤務途中だ。
じっくり見ていたわけでもない。
が、だからこそ「サクラはやっぱりいいなぁ」とよけいに思えるような気もしている。

長い間の習慣だろうか?サクラの咲く今は、なぜかリセットされるというか、リスタートされるというか、そんなニオイがする。
この歳になるとリセットなんかできないことが多いのだが、そんな気分は悪くない。

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仕事ではないのですが

ちょっとの間、地元を離れます・・・成果はいかに・・・

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かつて・・・

2009032501 VHSだのベータだのビデオ戦争が話題になるような時代があった。
当然のごとく戦争になるぐらいシェアを争っていたので、かなり普及していたわけだ。
私は、どっちつかずなので、両方持っていた。
そして、独身でもあったため、それで番組を撮りだめし、遅くに帰宅しては、晩酌の肴にし、本当に楽しみにしていた。
当時「男女なんたらかんたら」というドラマやら「金曜日の・・・」が流行っていた時代じゃなかろうか?
酔っ払いながら見ていたこともあり、帰宅する前の日常からまるで失楽園に入り込んだかのようにうっとりして見入っていたものだ。
その他には「元気が出る・・・」「ひょうきん○」などのお笑い番組も好きで、やっぱりこれもかなり力を入れて見ていた。
楽しかったのだから、それで良いのだろう。

が、そんな生活は習慣となり、いわゆるTV好きの生活が続いたものだが、歳食ったせいだろうか、最近は見たい番組が少ない。
しかも、インターネットなんかで、マスコミや芸能界の常識が当然のように暴露されている・・・

そこに藤○ナントカと陣○ナントカの離婚騒動だ。
アホらし、と思いつつも、あっちこっちで見てしまう。
そして一通り見て思った。
芸能なんて、全ては作り事の世界で、それでも楽しければよいのかもしれないが、所詮は他人ごとである。ということを。

つまりは自分には何の役にもたたねば、害も届かない。
自分と全く無関係なところなのだ。
が、それがさも興味を持つように、面白いことのように、自分と無縁ではないことのように・・・思わされる・・・
それで魅入ってしまうのだが・・・何でなんだろう?と考えてみた。

うーんいわゆる「お客」になっているのであろう。
なんやかんや言って興味をそそられ、それらの情報のお客になり、いわゆるメディアの策に見事にハマっているのだろう。
そして、その見返りに「楽しみ」を与えられたような気にさせられていたのだが、実際は何のことはない「自分の大切な時間が奪われていた」だけのこった。

かつて、TVからは有害な電波が放出されているなどと言っていた人がいる。
直接的に正解ではないかもしれないが、ある意味正解かもしれない。

今回の離婚騒動とて、私にゃ何にも関係ないことで、これからの自分の人生にも全く影響しない。
そんなものを「さも重大な情報」として仕向けられていると思うと、そりゃ政治家にも簡単に騙されるはずだわさ、と思えるのである。

まあ過去のことは後悔しても仕方のないことだが、それにしても自分に何にも関係の無いTVの中の出来事に、よく夢中になっていたものだ。
そんな時間があったのなら、もっと自分に直接影響することに、時間を使っていれば、ちったぁマシな大人になっていたかもしれない。

最近のTV離れは、ちょっとぐらいは成長している証だとしたら、うれしいことだ。
小さい頃、親によく「いつまでもTV見てるとバカになるよ。」は当たっていたようだ。

それにしても昨日は寒い冬の海だった。

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う~ん、失敗。

2009032302 昨日はブログにて自作自演でやる気を取り戻し、八割には満たなかったものの、六割程度の仕事の消化にはこぎつけた。
で、健康維持トレーニングはスタートがいつもより1日早かったこともあり、気分転換にそちらを優先。
軽いジョグとストレッチングでサッパリ。
こうなると飲んでしまう。
ところが、飲酒途中より、子供達の通う学校での問題が次々と告げられ、その話し合いで結局12時になってしまったのだが、ずっと無意識に飲み続けていたため、またもや二日酔いになってしまった。
自分でも「アホか?」と言いたいぐらいなのだが、なってしまうとこりゃまたなかなかサクサクとは行動できない。
いやー参った参った。
本当にいろいろと考えるようになったし、少しずつ努力もできるようになってきたのだが、「酒癖」だけは治らない。
たった一つ直せば、「救済法」の何十倍の効果があるのがわかっているのに、一番大事なところを治せない。
そりゃアル中だからだろうが、いつまでそんなことを言っていてもなぁ・・・
本当にだらしない。

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自分の醜さを知ることから・・・

2009032301 そしてとりあえず、今のところは先生が心配されていたような、自分を掘り下げることの弊害はあまり感じられない。
いや、むしろ正直な自分にときたま出会えるようになって、妙な安堵感がある。
さらには、そんな正直な自分を徐々にではあるが、出せるようになって、楽に感じることもある。
簡単に言ってしまうことはできないが、かつて自信満々に見えた自分は、虚勢のたまもので、実は本当の自信がなく、人目を気にし、評価を気にし、優秀な人と思われたいという欲で作り上げた「自分のなりたい虚像」のようなものだったのだろう。
そして本当の自分は猜疑心が強く、気が小さく、だからこそ、見え張りで、人によく思われたかったわけだ。
本当の自分を並べてみてわかってきたのが、「そりゃ何も大したことができんヤツ」だったのである。
いやさ、百歩譲っても「そこそこ生きてこられたら上出来」の部類であって、こんな低い能力と弱い精神力で、欲ばかりの多いこと・・・
自分でもあきれてしまう。
そして、本当の程度がわかってきて、良かったことがある。
私は頑張らないと生きていけないということだ。
楽して生きていけるほど能力も高くなく、大嵐が来ても堂々としていられるほど度胸もないので、なるべく動揺しないようにいろいろなことに頑張っていかなければならないのだ。
まあ、小さなトンボのようなもんである。
何が目標かわかんないが、ともかく一生懸命飛んでいないとエサにはありつけないのだ。
私とて、もっと悠長な人生でありたいが、それこそこれが神の与えし運命であり、生を受けて虫じゃなかっただけ、ありがたいというものだろう。

それは、先ほどの本の作者も言っているように「自分の醜い性格に気が付いたとしても、それは恐れたり恥ずかしがることでもない。育ちのせいであり、運命なのだ。」
とにして「そうだったのか!」と入っていったのが気が楽になってよかったのだろう。
考えたところでどうにもならない部分なのだ。
が、今は誰のせいでもない、自分の持って生まれた運命とはいうものの、恐怖への対処を卑怯に立ち回り、ごまかしてきたから、何の強さも備わらなかっただけのことであり、誰のせいと言うならば、やっぱり自分のせいでしょう。
気がつくのが遅かったので、ものすご未熟なまま歳だけを重ねてきたのであります。
なので、遅まきながらも。これから一つずつ生きていく力を身につけるしか残された道は無いということで、悩みの答えは簡単なのかもしれません。
惜しむらくは、もっと若い頃に早くこのようなことに気がつくなら、もうちょっとサワヤカで潔い人生だったように思うのですが、「今になって気が付かされる」それもまた神の授けた運命なのでしょう。
なんてことを考えていたら、やっぱり今日もそうのんびりしてはいられないようです・・・
なにしろ、まだまだ遅れているのですから・・・

おっと桜ももうすぐですね。

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人間も自然の生き物

人間だって所詮は虫や植物やほかの動物たちと一緒で自然の生き物だ。
生き物である限り、生きようとしなければ、生きられないようになっているんじゃないだろうか?
結局は自助努力が必要なのだろう。

「心」というものは人間独自のもののように言われるが、なら、大雨をよけるように葉陰を探したり、くもの巣をよけるように注意深く飛んだり、生き延びるためにすべての生き物が努力をするように、自分の心についても努力が必要なんじゃなかろうか?
私は徐々にそう思えるようになってきている。
大袈裟に言えば自分の心の傷は自分で癒すしかない。
心の病とて助言をもらえることはあったとしても、結局は「治したい」という気持ちがないことには、他人では治せないのではないだろうか?
まあ、専門家の先生はそのあたりをわかっていて、「生きようとする気持ち」を時間をかけて丁寧に呼び起こそうとしていると思うのだが、自分自身で気が付けば、その方が早いように私は思う。
よく、「それができないから心の病なんだよ」と聞くことがある。
ま、そういってしまうと、本当におさまりの無い話になってしまうので、要は私の場合は妙なところにも「性分」がはたらいて、自分でいろいろとやってみているのである。。

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自然界では競争を厳しいなんて思わない

私のお世話になったお医者さんは不出来ではなかった。
むしろ「なるほど」というアイデアをたくさんいただいた。
しかし・・・心の病は手術をするわけではないので、「相談」で治ることは無かった。
そうではない患者さんももちろん居られるとは思うし、ひょっとしたら私程度は「患者」の部類に入っていなかったかもしれないが、医者に通って話を聞いてもらうだけで治るということ自体に信用できないものがあった。
ある意味性分通り、やっぱり他の人をあまり「信用していない」のかもしれない。
というか、納得できる仕組みでなければ信用ができないのだろう。
ものすごく猜疑心が強く慎重なのかもしれない。

通うことにも慣れ、その割には効果を感じられないと・・・「悩みとどう向き合うか?」のヒントのようなことはお医者さんに与えてもらえたとしても、それをどう取り入れていくか、どう対処していくかは、薬ではなく、結局は自分の行動にかかっているんじゃないか?と思い始めた。
自分では行動する気になれないから「心の病」などと言うのだろうが、じゃあ、同じ「病気」であっても、癌になり余命が3ヶ月と言われても、生きようとして頑張って3年も5年も生き延びられる人も居るのは、やっぱり自分にかかっている部分が大きいのではないのだろうか?
私には余命が宣告されるような癌だったり、身体が不自由な病気と、「心の病」が対等には思えないのだが、それでも同じ病気とするならば、癌や身体の不自由ささえも自分で乗り越えなければ生きられないとするなら、心の病とて、結局は自分でなんとかするしかないんじゃあないのだろうか?

心の病で苦しんでおられる方には非常に厳しい言い方かもしれないが、人間だけでなく、生き物なんて、もともと自分で生きようとしなければ、生きていけるわけがないモノじゃないのだろうか?
自然界にとっては人間の心なんて屁理屈のようなものであって、なんとしてもメシを確保しメシを食う、その競争に勝てない生き物が絶えていくのが自然である。
それは人間以外の生き物にとっては「厳しい世界」ではなく、当たり前の世界だ。
ならば、半分は自然界の生き物の人間とて、そこに身をおいているわけであって、頑張れと言われるのが一番つらかろうが、頑張っていくしか方法はないのではなかろうか?

鬱の治療では「頑張れ!」というのが一番よくないと聞いた。
もうこれ以上頑張れないから鬱になっているのであり、その痛んだ心をさらに踏みつけるダメージを与えるからだと・・・
専門医の言われることなので、たしかにそうなのだろう。
が、「もう頑張らなくてもいい」のだったら、毎日何やって暮らしていくんだ?
どう見ても人生楽なことや楽しいことばかりではないのに・・・

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専門医の見解

私は心の病気の専門家でもないし、正しい処置をしていないのかもしれないが、自分の体験からすれば、奇遇なことに、私の性分であった結局は「自分で解決するしか」ないようにもいつのまにか思えている。
そう思うようになったキッカケは実は専門家の先生の助言ではなく、その助言をいただくための長い待ち時間に読んでいた本というところも皮肉なのだが、そこにそれらしきことが書かれていて・・・
先生の助言を待ちきれない私はちょっと実行に移してみたのだ。

その第一歩は「本当の自分を知る」ことから始めてみた・・・
別に誰にも言う必要もないので、自分自身を正直に見直す作業をしてみたのだ。
作業といっても特別なことをするわけじゃない。
日常行動での自分の正直な心境をもう一度確認してみるのだ。
こんなこと案外人間はしない。
だから知っているようで知らないというか、私の場合は正直な自分と見せている自分に「恐ろしいほどの開き」を発見することが多いこと多いこと・・・
で、あまりの自分の醜さに先生に相談すれば、「あんまり自分を掘り下げるのは良くないと思うよ・・・もう少し気楽な方向に物事は考えないと・・・」
とおっしゃられた。
たしかに醜い自分を認めるのには苦しんだ。
もうちょっとはマシな人間だと思っていただけに余計に自信も喪失した。
が、いつしか先生に注意されても、なんだか真実を知る作業のような気がして・・・いや、自分の根っこを正確に知らなければ、育ちかたを治すこともできんだろうと、事有るごとに自分の心理を確認することがクセにもなった。
そして、それだけで気が済まず、過去の自分の心理を分析したりするようになった。

先生はやはり「反対」した。
が、「思い込もうとしている自分」と「正直な自分」のあまりの違いが次々に確認できると、自分のことながらもっと知りたいという欲求も出てくる。
そして、過去の自分の分析をしたりして、「そりゃその後こうなるわけだ」と過去の事実が今になってようやく納得したりするようになったのだ。

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